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Interview

インタビュー

2020.01.06

Interview

「リーマンの苦境からの回復劇」アドバンテッジパートナーズを創立した笹沼泰助様に訊く、【成功までの道のり】と【求める人物像】について

株式会社アドバンテッジパートナーズは、1992年に設立された日本におけるプライベートエクイティ投資ファンドのパイオニアです。豊富な経営コンサルティング経験に基づき、経営への具体的かつ積極的な支援を通じて企業価値最大化を図るスタイルに最大の特色があります。
今回は、同社を創立した共同代表パートナーの笹沼泰助様に、同社創立までの経緯や、日本初のPEファンドとして成功するまでの試練やチャレンジ、さらに今後同社で求める人物像についてケンブリッジ・リサーチ研究所の本田がお聞きしました。

  • コンサルタント転職で果たした「運命の出会い」

    本田:笹沼様のご経歴からお伺いしてもよろしいでしょうか。

    笹沼様:大学を卒業後、メーカーに就職しました。そこで様々な仕事を経験していく中で、キャリアというものについて深く考えた時期があります。結論として、大企業の中で成長させていただくのも素晴らしい道ではあるが、小さくても何かを自らはじめるような人生のほうが自分には合っていると思い30歳で退職を決断しました。

    しかし、自分で何かを始めようにも経営のノウハウを持っているわけではありません。そこで集中的に企業経営の全般についての知識を得ようと、母校である慶應大学のビジネススクール「大学院経営管理研究科」へ入学しました。

    当初はそこで勉強してMBAを取得すれば即日起業できるのではないかと勇んでいましたがもちろん現実はそういうことにはならず、卒業を前に「それではコンサルティング会社に入って、海外経験を積めば目標に近づけるのではないか」ということで、ベイン・アンド・カンパニーというところに入社を決めました。

    本田:事業会社からコンサルタントに転身されて、いかがでしたか。

    笹沼様:今振り返ってみると、見込みが当たったと言えると思います。
    そこで私はリチャード・フォルソムという後の創業パートナーとなる人物と出会うことになります。彼と一緒に色々なケースを担当していくなかで世界には彼のように非常に優秀な人がいるものだと思ったと同時に、人格や人間としての価値観、そして持っている強み弱みといった特性のようなものが非常に彼とは合致したのです。

    そのうち彼と一緒だったら事業が上手くいくかもしれないというおぼろげな見込みを持つようになり、将来の創業のパートナーとして意識をするようになりました。ある日「将来的にはどうしたいのか」という疑問を直接ぶつけてみると、「コンサル会社は勉強の場で、いずれは自分で何かをやってみたい」という答えでした。 それで私はキャリアゴールについても彼とは共通している確信を持ち、それなら一緒にやってみるのはどうかという話が少しずつ具体化していったというのがアドバンテッジパートナーズの創業に繫がっていきます。

    本田:おふたりで事業を始めるというお話になった時、事業内容についてはどのように検討されましたか。

    笹沼様:ベインに入社して2年目あたりに、サンフランシスコで世界中のベインのコンサルタントが集まる会議がありました。その時にミット・ロムニーさんという、のちに大統領候補になる方が「ベインキャピタル」という会社の創業メンバーの1人として活躍されていたのです。まだスタートして数年しか経っていない会社だったのに大変うまくいっているという話を講演されたのですが、そこですごいビジネスがあるのだと大きな衝撃を受けました。

    KKRなど当時からのビックネームは噂には聞いていましたが、その実態をまったく分からずにいた時代です。そんな折に自分たちと同じような経験持った人がすごくうまく事業展開をしているという話を聞いて、直感的にこれは自分にも合いそうだなという印象を抱きました。そこで将来の事業候補のひとつに、プライベートエクイティがあるなという考えに至ったわけです。

    本田:その後、プライベートエクイティ創業に向けてどのように活動されていったのでしょうか。

    笹沼様:実はその後、すぐにプライベートエクイティをやろうということにはなりませんでした。リチャードもまだキャリアの半ばで、ウォートンに留学することになりました。私もハーバード大学ケネディスクールに留学することになり、たまたま同時期にお互いに米国東海岸に行くことになりました。 アメリカで長い休みの間も含め一定頻度で会っては「一緒にやろうと言っていたけど、どうなのか」という話をしていましたね。お互い変わらずそう思っているということを確認しながら、共同で事業を創業するという話を少しずつ前に進めていきました。

    本田:ご留学を経て、日本に戻っていらした後はどうされたのでしょうか。

    笹沼様:留学時に、彼はベインから留学費用を出してもらうベインスカラーとして留学していましたし、私もコンサルティング会社としては競合となりますがモニターから学費も生活費も全部出すから手伝ってくれとスカウトされての渡米でした。両者ともに紐付きで留学していたので、卒業してから3年間は支えてくれた企業で働かなければいけないという条件が付いていました。
    そこで、お互いにそういう縛りもあることを踏まえて、いつどのように事業を始めるかについて具体的に検討を進めていました。 その後3年経ったかどうかの頃でしょうか。だんだんモニターのなかで私も中心的立場になっていくにつれて、『走れメロス』ではないですが「本当に独立して事業をするべきか、このままコンサルティング会社で走り続けてもそれなりの人生になるのではないか」という迷いが出てきました。

    本田:独立を決断されたきっかけは何だったのでしょうか。

    笹沼様:リチャードもすごく成功しており、ちょうど彼はマネージャーにとんとん拍子で昇進するようなタイミングでした。2人ともコンサルティング会社で相当の可能性も見えてきた段階でしたので、このまま様子を見続けると事業をスタートできないかもしれないと感じ、「今、辞めると決めてしまったほうがいいんじゃないか」とリチャードと決断をしました。

    しかしお互いにプロジェクトを抱えていましたし、私が所属していたモニターの東京事務所はまだ規模も小さく、私が最年長という立場でした。クライアントとの関係や後継のこともあったので、1年位は立ち上げの準備もさせてもらいつつ綺麗なかたちで会社を去っていこうということで、しっかりと引継ぎと準備の期間をもって会社に話をすることになりました。
    そしてある朝に、1年後にこういう形で自分の事業を始めたいので、彼はベインを、私はモニターを去りますということを宣言しました。

    本田:創業の準備はどのようにされたのでしょうか。

    笹沼様:その一年間は、一部の時間を使わせてもらいながら様々な新規事業の立ち上げ検討を行いました。プライベートエクイティも対象に入っていたのですが、その時にはまだ何百億の金をレイズして何十億何百億という規模の投資をするというイメージが肌感覚でつかめなかったので、それをどんどん進めようというふうにはなりませんでした。

    さらに、あとで調べてみると、実はいざやろうと思った時には独禁法の制約があることが分かりました。 日本ではプライベートエクイティ投資事業ができないということがあるタイミングで判明したのですが、これに関しては絶対に規制緩和が起こるはずだと踏んでいました 。

    私もコンサルタント時代に金融業界に触れたことがあり、日本のメインバンクシステムは既に成り立っていないという感覚がありました。
    銀行の左右のバランスシートが長きに渡り整合していない状態で、銀行が長期的に低いスプレッドでの貸し付けを可能にする、ほとんどエクイティ投資に近いようなリスクを取り続けるというモデルはいつか行き詰るだろうと思っていました。先の見通しとして、早晩それが何か体系を変えるか若しくは市場が崩壊して、リスクに見合うリターンを充分に期待できる新しいリスクキャピタルに成り代わっていかない限り日本の金融産業界は成立しないという見込みがあったので、規制緩和が起こるのは時間の問題だろうという考えでした。

    もちろんその時期がいつかはわからないので、そう遠くない将来起こるだろう規制緩和の前に会社を辞めるのだから、ちょっと違う事業をやろうという方向で動き出しました。

    笹沼泰助様

  • 『アドバンテッジパートナーズ』旗揚げまでの道のり

    本田:アドバンテッジパートナーズのプライベートエクイティ事業を開始するまで、どのような事業をされていたのでしょうか。

    笹沼様:結局2つの事業を立ち上げることになります。ひとつはヨーロッパの付加価値税回収代行事業です。たまたまあるヨーロッパの投資家グループとの出会いがあり、彼らと一緒に約1年ほどかけて立ち上げました。非常にニッチなビジネスでしたが、世界リーダーになるまで成長しました。この事業は5年ほど経って、ナスダック上場のアメリカ企業へ売却することになりました。オペレーションは全て売却先の会社に移り、私とリチャードも経営から退くというタイミングがきました。

    それと前後して、付加価値税回収代行ビジネスを始めてからまる2年経った頃、二つ目の事業として『アドバンテッジリスクマネジメント』という会社をつくりました。
    きっかけは、アメリカの専門業者が当時大蔵省から認可を受けて「グループロングタームディスアビリティ」という団体向け長期障害所得補償保険なる特殊な保険を販売するという小さな新聞記事です。
    金融のプロジェクトに携わった経験から保険がすごく高収益事業であるというのは知っていたのですが、何しろ参入障壁が高いのです。しかし新しく認可されたような商品を取り扱うのであれば、皆一斉に0からのスタートになるので新規参入も難しくないだろうという期待がありました。後に既存プレーヤーから相当のプレッシャーを受けることになるのですが、これは面白いということで挑戦することにしました。

    その時、ベイン時代の仲間だった鳥越さんという方に責任者をやってくれないかと声をかけて、私とリチャードは取締役及び営業の担当としてスタートしました。
    この事業も後に色々とサービスを増やしていき、10年ほど前にヘラクレス(現JASDAQ)に上場して一昨年には東証一部上場になりました。今でこそ大きくなりましたが、最初は3人でまず塾みたいなところに行き、保険販売の資格を取るところからはじめた会社でした。

  • 規制緩和により念願の日本第一号プライベートエクイティを創業

    本田:続々と事業を成功させる中、どのタイミングでプライベートエクイティの創業に着手されたのでしょうか。

    笹沼様:そうこうしているうちに、弁護士から突然電話がかかってきました。
    「笹沼さん、とうとうその時がきました」とおっしゃったので「なんのことですか?」と返すと、なんと独禁法の改正が起こったというお話でした。事業実体の無い会社が金融投資の目的且つ企業の51パーセント以上の所有権を獲得することを禁じている独禁法改正とそれに関連するいくつかの法令が改定されたことでプライベートエクイティファンドを創業できるようになったのです。

    この法改正によって、後に「~ホールディングス」と名乗る、まったく事業実体のないただ所有するだけの会社が続々と生まれていきます。これは戦後の財閥解体以降そうしたホールディング会社の形態が取れなくなっていたのですが、1996年の法改正により可能になるという大きな変化でした。

    プライベートエクイティファンドとは、ファンド自体に事業実体がない所有するだけのエンティティです。それがいわゆる独禁法の対象だというので、弁護士からは「日本では事業ができません」と長く言われていました。確かに日本に一社もありませんでした。
    そんな時、待ちに待った規制緩和というチャンスが来たということでファンドレイズを始めて10か月ほどで投資を開始出来るようになりました。最初は30億という小さな規模でしたが、まがりなりにもプライベートエクイティファンドが立ち上がったのです。日本で最初のプライベートエクイティファンド、あるいはバイアウトファンドと言われているようですが、それ以前は法律で認められていませんでしたから、第一号と言って良いのでしょう。

    本田:日本の市場に対する見通しはいかがでしたか。

    笹沼様:規制緩和が浸透し、徐々に日本でも市況が活性化していきました。

    カーライルさん、ベインキャピタルさん、KKRさん等、海外の大手もどんどん進出してきて、プライベートエクイティ市場の輪郭というのが徐々に見えてくるようなまさに黎明期でした。 
    私とリチャードのところにKKR設立者であるヘンリー・クラビスさんが会いに来たこともありました。非常に丁寧に、「あなたたちに教えてほしい。学びたい」「日本のプライベートエクイティは今後どうなっていくのでしょうか」と仰るのですね。伝説の人が教えを乞うように目の前にいらっしゃって。我々両名は大スターに会ったように興奮して、お願いして写真を一緒に撮らせて頂いた記憶があります。そんな新しい時代の幕開けでした。

  • 日本企業が潜在的に持つ「M&Aに対する抵抗感」との戦い

    本田:その後、どのようにしてアドバンテッジパートナーズは成長していったのでしょうか。

    笹沼様:その新時代の到来に私とリチャードが何を考えたかというと、いろいろな市場に出向き様々なプロジェクトで日本のM&Aの推移を見ていると、日本という社会文化の中でM&A、すなわち企業の所有権を誰か他人に譲り渡すということに対してものすごく強い心理的抵抗があるという事実でした。

    現在でも、大企業のトップの方に「御社の事業部をお譲りいただけませんか」と申し上げますと、「笹沼さん、他の会社に部門を売るというのは社員を殺すのと同じことですよ」というご返答を頂くこともあります。私は「もし御社の中で投資もされず、活性化もなく、ただ置かれているというような部門となっているのでしたら、それは非常にもったいないことです」ということを慎重にお話します。

    こういった状況に関してリチャードとかなり相談しました。GDPの規模を考えると日本はアメリカの半分ぐらいの市場になってもいいはずだけれど、なかなかそうはならないだろうなというふうに思っていましたから、じっくり取り組んでいこうという話になりました。
    とにかく我々が一応は先手としてスタートしたのだから、実績を積み上げていこう、ということで一生懸命にやりました。

    その後はファンドが180億、465億、2,150億、それから200億のブリッジファンド、さらには日亜合計で1,000億のスケールへと成長していきました。PEファンド事業を始めてから22年になりますが、欧米の規模との差は全然縮まっていませんし、むしろ未だに広がっている状況です。

    しかし当初から相当時間がかかることを見越していましたから、ただ小さなバイアウトファンドの繰り返しで対価を獲得して終わりということではなく、やはり企業としてゴーイングコンサーンとなることを目指す、即ち、永遠に成長・発展する会社をつくることを我々の目標にしようと決めました。
    すると、このミッドキャップのバイアウトファンドだけではなかなかグローバルな規模にはなれないので、我々の中長期戦略あるいは目標として、「日本生まれのマルチプロダクト、マルチナショナルの投資会社あるいは投資ファンド運営会社になる」と具体的な会社の道筋が見えてきました。
    その当時は1997、8年でしたから、2015年ぐらいにはアセットアンダーマネジメントで3兆円ぐらいにするという目標を立て、そこを目指すイメージで進めてきました。

    リーマンショック前に第1期のアドバンテッジパートナーズのプライベートエクイティファンド運営会社としてのものすごい成長期を迎えたので、世界中から巨額のお金が集まりました。実際は5,000億を超える資金のオファーがあって、まだそこまで使えないだろうということで、まずメインファンドは1,500億、それからコインベストメントファンドで500億と立ち上げて多くの案件に対応いたしました。
    その時は非常に評価も高く、こうなればいよいよということでマルチプロダクトの1歩目として投資対象の多角化をするため「インフレクション」という名前で上場会社にマイノリティ投資をするファンドを立ち上げました。こちらは260億でのスタートでした。  

  • 成長の過渡期にリーマンショックが直撃

    本田:続々と会社を立ち上げて「日本生まれのマルチファンド」として躍進を続ける中、特に印象に残っている出来事はありますか。

    笹沼様:ちょうど2,000億規模の4号ファンドと260億の上場マイノリティ投資ファンドをスタートした矢先、リーマンショックが起こりました。その時まずある金融機関への大きな投資、更には車関係会社への大型投資と、リーマン前に投資したこの2つの大きな案件がショックの直撃を受け苦境の時期に突入しました。最終的には両案件がロスになり、ファンドの資金の過半を失いました。投資家の皆さんとも、このリーマンショックという未曽有の激甚災害にどう対応するかということで意見交換をしながら、全関係者が苦闘する時期が何年か続きます。

  • ピンチを救った残り資金での起死回生リターン

    本田:世界が不況にあえいだ状況から、どのように挽回されたのでしょうか。

    笹沼様:我々はとにかくその2つの案件の見通しが厳しいので、ほかの案件で頑張ろうということになりました。まず4号の2,000億のファンドのお客様にきちんとリターンを返すまでは、多角化を進めている場合ではないということで一旦ストップをかけました。インフレクションはスタートしていたのでそれは継続して、4号ファンドの残る投資をきちんとやることと、投資先の経営を強化して価値を出そうということに集中しました。結果としてそれが非常にうまくいきました。

    もちろん投資家様や金融機関様とも苦しいコミュニケーションが多々ありましたし、投資資金を全損した案件も生じた上、最終的にはファンドの規模も少し小さくせざるを得ませんでしたが、なんとか決着しました。たった2つの案件でファンドの過半の資金をロスしてしまったという状況から挽回のステージに入るのです。

    最終的に昨年大体の見通しがつきましたが、ロスを入れてもおよそ2倍弱ぐらいでの着地でしょうか。結局のところ残った4割が非常に高いリターンで回ったというのが最大の要因でした。大きな2つのロスの後に投資をした国内案件、あるいは中国企業へのグロースキャピタルの案件が大きな利益をもたらしました。

    これらの案件のリターンで二つの案件がもたらしたロスは埋まり、その後もすごく順調にいき安定しました。投資家の方々も本当に驚いておられ、高評価をいただきました。
    多くの方が「巨大なロスが出て、資金が過半もなくなってしまって一時期はお互いに大変でしたが、最終的に素晴らしい結果になりましたね」と言ってくださったので、多分なんとか及第点をいただいたのだと受け止めています。

    この結果には、何より全従業員に心から感謝をしています。大きなロスも出たのですべてを計算すると、キャリーは出ないということが誰にでも分かる状況でした。もちろん辞めていかれた方もいましたし、若干の希望退職を募ったこともございました。
    とは言えほとんどの方に残って頂き、そこから「今いるメンバーで残る案件を頑張ろう」とドラマが始まりました。キャリーはどうも駄目そうだけれども、プロフェッショナルとしてまずは投資家にきちんとご資金をお返ししようと言っていろいろ議論をしながら、「みんなでやるんだ」と一致団結したあの瞬間とそしてその後の挽回のプロセスは忘れられません。

    本田:損失分を回収した後、どのように止まっていた多角化を再開されたのでしょうか。

    笹沼様:そろりそろりと当初想定していた多角化へ乗り出そうということで、まずはアジアファンドというのを立ち上げました。いずれプライベートエクイティ市場がアジアでは日本についで中国、台湾でどんどん起こってくるだろうと思っていたので、それを見越して実は十数年前に香港に事務所を開いていたのです。

    設立当初の主要な目的は、アジアの視点から日本の投資先にいろんな価値を提供するというものでした。例えば我々の投資先でアジア展開の支援をする、向こうでクライアントを開拓する、お店を出す、あるいは新しい調達先を発掘する。そうでなければ提携先を探すなり買収先を探すなり、そんな活動をアジアから日本の投資先に対して提供するという目的で開始しました。
    それが順調に伸びていき、そうこうしているうちにアドバンテッジがオフィスを開いたという噂が広まって案件がどんどん持ち込まれてきたのです。
    ただ、我々はアジアでは当面投資しないと決めていたので、情報だけをホールドしていました。そのうちに持ち込まれる案件のタイプに徐々にバイアウト型のものが含まれるようになっていきました。 

    それまでアジアのプライベートエクイティマーケットというのはグロースキャピタルといいまして、殆どのファンドが未上場の会社で成長する会社にマイノリティで投資していました。
    上場までの間の資金支援をするという形ですね。それも、大げさに言えばものすごく高額なうえに2週間以内に決めてくれというような案件がほとんどでした。
    我々は今でも徹底的に調べ倒してそれでも投資しないような方針なので、我々はそういうコンセプトには対応できないものの、なるほどそういうマーケットなのだなと勉強になりましたね。

    ところが徐々に経済も成熟してきて、さらにアジアでも高齢化が進んでいき、世代交代が起こってくると売却案件が増えてきたのです。こうなるとそろそろアジアでもバイアウトのマーケットが伸びそうだなと感じたので、あるコンサルティング会社に依頼して今後アジアのバイアウト投資やファンドを始めるとすればどの国がいいのか、果たして適切なタイミングはいつ頃来るのかということを調べてもらいました。

    結局、我々が仮説としていた6カ国ほどが候補に上がりました。最終的に三井物産さんと丸紅さんと3社の共同運営という形で、3億8,000万ドル規模のアジアファンドを立ち上げました。
    その前後に、日本のファンドは2,000億のファンドの投資期間が終わった後の混乱が完全には収束していなかったので、200億のブリッジファンドのようなものをつくりました。それも非常にうまくいったので、今度は600億の本格的な規模のファンドをつくったという流れです。
    したがって今バイアウトファンドでいうと日本で600億、アジアで400億ぐらいをお預かりして、日本を含めた全アジアあるいはアジアの主要国をカバーしているという状況でしょうか。

    本田:現在の日本市場や上場企業の現状と御社の役割ついてどのように考えていらっしゃいますか。

    笹沼様:現在も様々なファンドが立ち上がっています。『インフレクション』というのも上場会社対象の投資だったので正面からリーマンショックの影響を受けましたが、最終的には同じく2倍弱で着地しました。その実績もあり色々な仮説が検証できたので、次は『インフレクション2』というファンドを1年ほど前から立ち上げに入りました。この9月あたりで大体のファンドレイズも終わる予定で、すでに投資が始まっています。
    当初は規模も150億ぐらいで考えており、投資対象は上場会社のなかでも小ぶりの企業に設定して我々が成長のお手伝いするということでスタートしました。ですが、徐々に様々な大型投資案件のご相談を受けるようになりました。上場企業内で多くの問題が起こっている現代において、弊社の「業界を問わず企業を良くしていく力」というのに興味を持ってくださった方々が、「この会社に資金を入れていただいて、なんとか経営改善のお手伝いをしてもらえませんか」と案件を持ち込まれるようになったのです。

    現在の日本の上場企業を俯瞰して見ると、成長性が明らかに鈍化しています。
    収益はどんどん出ていますがキャッシュはバランスシートの左上に溜まっていき、諸説ありますが250兆円なりの資金が上場会社のバランスシートに貯まっている状態です。
    売上は成長していない一方で利益は右肩上がりに出ているという日本の上場企業全体を、仮に『日本株式会社』とひとつの会社としてみると、実は売上成長なし、利益が出る、設備投資はしない、キャッシュが加速度的に貯まる、という状況は企業でいうとある意味、終末期の状態です。
    ある企業が終わっていく時に表している様相と同じだと考えると、これは日本全体としても良くない兆候ですから、我々がカタリストなりオーガナイザーになって資金を投入しコンサルタント時代から身に着けてきた「企業の成長に対する戦略、効率性と収益性をいかに高めるか」という技術や知見を発揮するべきなのではないかと考えています。

    この20数年はそこに投資という資金を入れてリスクも取り、成果を出すこと軸にしてきたので、そうした会社に何かお役に立てるようなファンドがあっても良いだろうと考え、同様のプライベートエクイティの形態で投資対象を少し大きくしたファンドの立ち上げとスポンサーとしての役割も果たしています。
    私とリチャードのビジョンとしては、それが向こう1~2年の間に実現するとして、大体1,000億程度の規模になると予想しています。そうなれば、柱としてバイアウトファンドで1,000億、上場会社に対するマイノリティ投資、付加価値提供型成長支援型のファンドで1,000億といった柱が2つできることになります。
    この流れでいくと、それぞれが次号のファンドを生み、徐々に規模が大きくなっていく計算です。私がいつまで現役でいられるかどうかは別として、当初目指した2兆円3兆円という道のりへの1歩目2歩目としてふたつの柱で進んでいくのです。

  • 「第3の柱」を求め、貪欲に成長を目指す

    本田:今後はどのように展開されていくのでしょうか。

    笹沼様:世界中にいる投資家の方々のニーズというのは日を追うごとに変わってきていますし、様々なアセットクラスへの関心が高まっている状態です。これまでの多くの投資家様とのお付き合いの中で、「アドバンテッジパートナーズの“投資先に価値を提供する機能”というのはよく分かった。素晴らしいと思う」と言っていただく機会に恵まれてきました。しかしながら、全然駄目だと言う人も当然います。4号ファンドに入っていただいた方の中には、「あんな失敗をするなんて付き合いきれない」と言って去っていった方もいらっしゃいます。
    ただ、その中には戻ってきた方もいれば、その後ずっとサポートしてくださる投資家もいるのです。

    こういう応援者の方々がついてくださっていますので、我々としては、投資家様があれこれ色々なファンドのどこが自分たちにとっていいのかと探すよりも、アドバンテッジにはそうした投資先の価値創造という力があるということを活かして他のプロダクトにも目を向けて頂き、アドバンテッジだけに入れていればそれで投資の話は済むというシステムを提供することを目指しています。
    ワンストップショッピングとはよく言いますが、そういう利便性を提供して欲しいという方の意見を取り入れた形になりました。

    現在は我々のこれまでの経験や外部からお借りする力、それに今立てた2つの柱を鳥居に見立て、より安定感をもたらす「鼎の3本目の柱」として何をやるべきなのかというスタディをしているところです。

    そんなかたちで徐々に、先ほど申し上げたアジアに立てたファンドなどマルチナショナルな方面が大きくなっていくでしょうし、アジアでカバーする地域も増え、ゆくゆくは北米、ヨーロッパというように地域の拡大もされていくでしょう。
    そう遠くない将来、アフリカもプライベートエクイティの投資対象になっていくでしょうね。そうして我々の活動が徐々にグローバル化していくという未来図を描いています。

    そういったプロダクトに関して今まさに「第3の柱」を探しているのですから、当初企図した日本生まれのマルチプロダクト、マルチナショナルの投資ファンド運営会社になるというベクトルの方向と斉合し始めています。スピードも度合いも、当初の予想より遅れてはいますが、今もう一度成長の出発点に立って取り組み始めたというところだと思っています。私とリチャードが現役でいる間にどこまでの道筋をつくり、次世代の人たちに委ねていけば良いのかということも含めてですので、明日からお願いねというわけにはいかず、複雑な手順を見ながら一定の間合いを見つけるという作業でしょうか。あと50年ぐらいの間に私が引退して…というのは冗談ですけれど、感覚的にはそのような感じですね。

  • 女性も男性も、一緒に「冒険の旅路」に出てくれる人材を採用したい

    本田:御社の採用についても少しお話をうかがえますでしょうか。

    笹沼様:「採用ターゲットが標準より少し若く、人材を上手に育成するところが非常に強みである」というふうに感じていただいたようですが、それには訳があります。
    話が遡りますが、最初にうちに入ってくれたのは、バイアウントファンド未経験の方だったのです。リチャードの旧友にとある会社の代表をしていた方がいらっしゃいました。ものすごくゴルフが上手く、東大のゴルフ部に所属されていたと聞いて、なんだか楽しそうなのでとにかく声をかけてみようとなったのがきっかけでした。 
    2つ返事で来て下さるというので、最初からパートナーでお願いしようと役職付きで入ってくださったと記憶しています。
    それでも労働力が3人では進まないから若い人が必要だというので、その方のお知り合いにマッキンゼーで働いていらしてピアノも将棋もプロ級の人がいるという噂を聞きつけました。それでリチャードが早速彼に声をかけます。我々の夢とビジョンを懸命に語った後、ご本人が「来る」と言ってくれました。 その彼が今シニアパートナーの永露さんです。

    その時にリチャードとずっと話していたのは、我々自身もまだ若手だった頃に例えばパートナーへの昇進や何かの日本代表という道から飛び出して、本当に色々な事業を経てここまできたということです。振り返ると、当時の自分たちの持っているパトスや情熱みたいなものとそこからくる仕事の効率性というものには自分でも驚くほどでした。最初のヨーロッパにおける付加価値税・保険の仕事やバイアウトファンドを始めた頃のことですが、信じられないくらいに頭がよく回転して体も動き、どんどん成果も出るというあの立ち上げの時期ほど鮮烈な印象を残していることは我々にとって他にありません。

    その事実が弊社の採用にも大変重要に思えましたので、それからは一生に一度の機会として我々と冒険の旅路に乗ってくださる方にお声がけをしたほうが、本当の意味で潜在力のある方が来てくれるのではないかという思いで採用を行っています。
    もちろんいろんなご経験や人脈があるような人に来てもらうのもいいけれど、むしろポテンシャルのある人ならばまだパートナークラスではなくとも、うちに来ていただければビッグファームにいるよりも速く成長ができますよとみなさまにお話しています。

    もちろん賛否両論はありますし、我々自身でももっとエグゼクティブとして経験を積んだ人を入れたほうがいいのではと議論になることもしばしばです。しかしながら、現実はそういった方がいきなり上司になったとしても実際にはスムーズに動かず、弊社組織に限って言えば恐らく機能しないという結論になっています。
    はじめはファンドの規模も小さかったので、一流コンサルティング会社や投資銀行のパートナーの方に高額な報酬を払うので我が社に来てくださいと言いたくともそもそも原資の選択肢がありませんでした。
    そこを若い人に、お給料を少し下げても来てもらえれば、きっとこの面白さに気が付いてもらえると感じました。 逆に言えば、リスクを取ってでも来てくれる人のなかには安易に上手くいくと思っている人は少なく、この仕事にも向いているであろうと判断したのです。我々はこの考え方で採用をスタートして良かったなと今でも思っています。ほとんど中途採用でありながら、広義でいえばプロパー主義で今日まできていますから。

    本田:ありがとうございます。御社の早川様は、その意味では貴重な採用タイプとしてシニアに昇進されましたね。

    笹沼様:マッキンゼークラスのコンサルティング会社でマネージャーやパートナー手前という方に来てもらったのは、束原さん、早川さんなどが初めてでした。  当初は投資先の経営支援を専門に担う機能があったほうが効率が良いだろうという考えで、魅力ある部隊をつくろうと4名ほどクラスが上の方に来ていただきました。それは発展的解消を遂げて、現在は外に出て行かれた方もいらっしゃるし、投資チームに合流した方もいる、という経緯でしょうか。

    本田:最後に、御社を目指す方々に贈るメッセ―ジや組織の今後のビジョンなど是非お聞かせください。

    笹沼様:人材の観点からいくと、当初私たちの持論として「会社というのは分かりやすいほうが良い」と考えていました。
    例えばファンドレイズをするにしても、社内の人間から見てアドバンテッジパートナーズとはどういう会社なのかということが明確であるほうが、好き嫌いがはっきりわかれてよりニーズのある所にたどり着きやすいだろうという想いがありました。

    ベインキャピタルについて相当研究したこともありましたが、コンサルティング会社出身者を中心に構成していたほうが、弱点があっても一つの軍として優秀であり、わが社の得意とする「会社の価値を上げる」ということに繋げて見てもらえるのではないかということでした。最初に入社された方もCDI出身でしたし、永露さんはマッキンゼー、その後もベインやBCG、A.T.カーニーからそういった方に来ていただきました。
    弊社に集まった全員の経歴を見ていただけると、「ここの会社が何を標榜しているのかどういった切り口で投資先に価値を出そうとしているのか」というモデルが、よく分かると思います。

    ただ、逆に多様性の関数を捨てると、同じような特性の人間ばかり集まっていることの弊害もやはり生じます。
    そこである時期から、少しずつ投資銀行の出身者とか会計士の方とか、持っているスキルや価値観の違う方にも参加していただいています。
    既にアドバンテッジパートナーズとは何かというのはプライベートエクイティの市場で大方ご理解いただいているので、今はこういった違うタイプの方を採用することが増えており、多方面での実行性を高め、効率性を上げ、そしてクリエイティビティを高める意味で多様化しています。

    まだ事業会社だけの経験者はいませんが、ゆくゆくはそんな人も入るかもしれないと考えています。そして、私とリチャードのひとつの目標として、プライベートエクイティ業界で「女性のパートナー級の人材」を輩出していきたいと考えています。
    世界的に見るとこの業界だけ、女性で活躍している方が非常に少ないのです。 プライベートエクイティ業界でも性別は関係なく絶対活躍できると感じていますから、欧米の女性官僚の躍進のように、多様性のひとつとして活躍する女性を増やそうと考えています。
    女性にとっての新たなプロフェッショナルキャリア市場というものが想像できることで、国内外を問わず社会的課題の解決のきっかけになることを期待しています。

    株式会社アドバンテッジパートナーズ

    株式会社アドバンテッジパートナーズは、1992年に設立された日本におけるプライベートエクイティ投資ファンドのパイオニアです。豊富な経営コンサルティング経験に基づき、経営への具体的かつ積極的な支援を通じて企業価値最大化を図るスタイルに最大の特色があります。

    笹沼泰助様

    アドバンテッジパートナーズ共同代表パートナー。1992年アドバンテッジパートナーズを創立、共同代表パートナーに就任。研究論文、寄稿記事に「ベンチャー企業に見られる新しい競争原理」、「日本のベンチャー企業の競争戦略」、「日本企業の買収後の統合戦略」、「中堅企業の長期計画」、「ベンチャー企業の競争戦略」などがある。大学卒業後、積水化学工業株式会社にて、営業部、人事勤労部、総合企画室、新規事業プロジェクトを暦職。大学院修了後、戦略コンサルティング会社、ベイン・アンド・カンパニー・ジャパン・インコーポレイテッドおよびモニターカンパニーにて日米欧有力企業の企業戦略の立案、個別事業の競争戦略の立案、収益性改善計画の立案と実行などの業務に従事。慶應義塾大学法学部卒業。同大学大学院経営管理研究科修了(MBA経営管理修士号取得)。戦略理論、マーケティング理論専攻。ハーバード大学ジョンエフケネディ政治行政大学院修了(MPA行政管理修士号取得)。財務管理、国際関係専攻。